『活性型オイスター』の誕生までを表現するカバー画像

『活性型オイスター』の誕生まで

故・渡辺富雄のストーリー

前会長:渡辺 富雄

携帯できて、栄養価の高い
食品があったらいいのに

背筋を伸ばし、しっかりした様子で自転車をこぐ男性。その人が弊社会長・渡辺富雄だと知ると、誰もが感嘆の声をあげました。大正3年(1914年)2月10日生まれ、100歳を優に超えていたからです。生前、渡辺が詠んだ川柳に次のようなものがあります。

「よく噛めば長生きできるぞ俺を見ろ」

よく噛めたのも、おいしく食べて、活力に変えられるチカラが身体にあればこそ。文字通り、牡蠣に活かされた人生でした。

渡辺が牡蠣に目を付け、研究を始めたきっかけは、戦場での体験でした。

1937年、上海上陸作戦(上陸の際の先頭と後に続く南京追撃線と合わせて65,310人の戦傷者が出たと伝えられている※ウィキペディア)に参加した渡辺は、連日数10キロの重荷を持ち、南京へ向かって過酷な行軍を強いられました。

その時、渡辺は必死になって、ある考えをめぐらせていました。

「いつでも、どこでも携帯できて、食することのできる栄養価の高いものが必要だ。それさえあれば、皆を助けられるのに。それは何なんだろう」

「牡蠣はどうだろう」
軍医がヒントをくれた

答えがでないなか、ある日ついに左足の腿に被弾、野戦病院にかつぎ込まれます。激痛に顔をゆがめ、(これでもう歩けない。戦うこともできない。俺も戦場で死ぬしかないのか)絶望的な気持ちでいるとふいに話しかけられました。

「君か、この前助けてくれたね。今度は僕が助ける番だ」

温かい言葉に目をあけると、そこには、ほんの数日前、戦場で危険な状態のところを渡辺に助けられ、命拾いした軍医の笑顔がありました。懸命な手当のかいもあり、渡辺のケガは順調に回復しましたが、軍医は渡辺を戦場に戻そうとはしませんでした。

「僕の助手をしてくれたまえ。君は敵を殺すより、味方を助ける方が向いている」

治療法を教わりながら働くうち、すっかり身体も回復した渡辺は、軍医に相談しました。

「ケガの手当ても重要ですが、より多くの生命を救えるのは食料です。携帯できて、栄養価の高い食品があったらどんなにいいでしょう」

すると軍医は頷き、言いました。

「僕も同じことを考えていたよ。牡蠣はどうだろう。日本では古来、武田信玄のような名将もスタミナ食にしてきたし、西洋では海のミルクと呼ばれている。素晴らしい栄養食品なんだ」

牡蠣肉エキスの
固形化に成功し、製品化

その後、帰国した渡辺は、東芝の軍需工場に勤め、“ゼロ戦”の製造に従事。持ち前の器用さと職人気質の誠実さが認められ、工場長にまで上り詰めたところで終戦を迎えます。軍需産業に携わっていたものは、次々と進駐軍に連行され、戦犯として裁かれていた時代。経歴を隠し、もぐりこんだのは、立川の米軍基地でした。

将校専用のレストランで働く毎日。ただ、東芝時代に学び、培った電気工学の知識をもとに、冷蔵庫だろうがテレビだろうが故障修理は何でもおまかせ。片っ端から直してみせたおかげで重宝がられると同時に「あいつ、いったい何者だ」と目をつけられてしまいます。

「将校に呼び出され、詰問されたよ。でも、ばれたからにはしょうがない。東芝でゼロ戦の部品を作ってましたって白状したらどうなったと思う。なんと、次の日から給料が10倍に増えたんだ。アメリカって国の凄さを、改めて感じたね」

「そうだ、牡蠣で、携帯できて、栄養価の高い食品を作り出して売ろう

豊富な有効栄養成分を的確に抽出濃縮、固形化に成功し、日本で初の「牡蠣肉エキス」として売り出したのは1967年。中国で構想をめぐらせてから30年、渡辺の4男、渡辺貢(現社長)が高校生のときでした。